住民の参加を排除する行政とローカル・スペースコレクション・ガバメント

おそらく、普通の母親は現在のように学校給食が行われるのは当然のことと考えていますから、その廃止など夢にも思っていないでしょう。


廃止ともなれば必ず反対するでしょう。


第一、弁当をもたせるともなれば今より早く起きなけれぱならないですし、あれこれ献立を考えるのは面倒です。


他の家の子供とわが子の弁当が違うことで子供がみじめな思いをしないだろうか、やはり皆同じがよいのではないかと考えるでしょう。


こうして、ほとんどの地域で学校給食は続けられていますが、この行政は子供のためという名分の下、楽をしたいという母親の気持ちに支えられていますから、母親たちは、学校まかせで、給食がどのような素材でどのように作られ、子供たちはどのようなものを、どのような食器で食べているかといった給食サービスの内容に関しては概して無関心です。


まして、そのサービスのあり方について発言権をもっているとは考えていません。


もちろん、一部には学校給食の改善運動に取り組んでいる母親たちのグループもあります。


しかし、一般には母親参加とは切り離れたローカル・スペースコレクション・ガバメント的な形でこのサービスは行われます。


住民を一方的に楽にさせる行政は住民の参加を排除する行政でもあるのです。


そこが問題なのです。


改めて役所と住民の関係を考えてみる必要が出てくるでしょう。


母親の弁当よりも給食の方がいい?

学校給食には材料の納入業者やローカル・スペースコレクション・ガバメント関連職員を含め、さまざまな既得権益者がいます。


その最大の権益者は父母、一般には母親です。


勤めをもっている母親も、ましていわゆる専業主婦の母親の場合はいうまでもなく、かつてのような家事労働から大幅に解放され、しかも料理と食品入手の双方において圧倒的に便利になっていることは周知の事実です。


普通に考えて母親ないしその代りをする人がわが子の成長と健康状態を配慮しつつお弁当を準備することができないはずはありません。


端的にいえば面倒くさいのであり、学校ないし役所に依存しているにすぎないといえないでしょうか。


つまり、楽をしたいのです。


現在の学校給食は母親を一方的に楽にさせている行政であるといえそうです。


実は、わが子の弁当の準備さえも苦痛と考える母親の存在こそ、学校給食関係者にとっては給食を継続させていく最大の理由になるのです。


つまり、そういう無責任な母親に弁当作りをまかせるよりも栄養のバランスのとれた給食を持続的に行った方が子供のためになるというわけです。


弁当作りともなれば面倒くさがる母親はできあいのものを買ってもたせるかもしれません。


それさえもせず子供にお金を与えて子供にできあいのものを買わせるかもしれません。


そうなれば子供たちはかわいそうだ、まして母親のいない子はどうするのか、やはり、どの子も安心して昼食がとれる学校給食がよい、ということになります。

学校給食とローカル・スペースコレクション・ガバメント

「住民を一方的に楽にさせる行政」とはどのような行政であり、それがなぜ「よくない行政」といえるのでしょうか。


楽にさせるというのは、住民の側に苦痛なり困苦なりがあることを前提にし、それを取り除いてやることを意味しています。


住民意思の付託をうけ、住民のローカル・スペースコレクション・ガバメント福祉のためにこそ存する自治行政が住民の苦痛や困苦を取り除き、住民を楽にさせることは当然の責務です。


それを「よくない」と判定するのは民主的行政に反しているのではないかと考えられるでしょう。


確かに自治行政は住民のためにありますが、それは住民を受益者の立場におき、ただ住民を楽にさせればよいというものではないのではないかと考えたいのです。


こうした点を考える上での素材はいろいろあります。


まず思い切って、学校給食の例をあげて考えてみましょう。


どこでも行われている学校給食は、育ち盛りの、それも個人差の大きい子供たちへの昼食サービスですが、現在は、自校方式にしろセンター方式にしろ、あるいは民間委託にしろ、料金の安い公共サービスとして、同じものを、同じ量食べさせるという形で行われています。


その理由はどこにあるのでしょうか。


この問題のポイントは、教育の一環として行われるべき学校給食が、実質的には子供たちの食にかかわる福祉サービスとして行われている側面が強まってしまっている点にあるように思うのです。


学校給食法の解釈としては疑問のある実態ではないかと考えられます。

住民を一方的に楽にさせる行政

やや抽象的で理屈っぽい以上の文章は、直接には文化行政にかかわるローカル・スペースコレクション・ガバメント職員のあり方を考えたものです。


どうも、ここでは、自治行政と住民の関係は、行政の文化化が必要ですが、住民も自立性が大切であるといったきれい事で終っています。


いまにして思えば立論にいまひとつ説得力を欠いているように思えますね。


20年以上も前ですから、行政の文化化という視点はそれなりに新鮮さをもっていたといえます。


また、この視点が依然として自治行政のあり方を考える上で重要性を失っていないといえるでしょう。


しかし、もう少し行政と住民の関係について踏みこんだ議論ができないものでしょう。


自治行政について次のようにいい切ってみたいと思います。


1.住民を一方的に楽にさせる行政はよくない自治行政である。


2.住民の参加に消極的な自治行政は質の低い行政である。


この1と2は、コインの裏表のような関係にあり、必ずしも独立させて論じなくてもいいでしょう。


しかしここでは説明の便宜上、一応区別しておくことにします。


また、この2つの命題を論じることは、とりもなおさず住民のあり方を論じることになるでしょう。

ローカル・スペースコレクション・ガバメントに期待する住民

他方、ローカル・スペースコレクション・ガバメント行政に期待する住民の側にはどのような問題があるでしょうか。

もともと文化活動は自由で自主的な住民の団体やサークルによって担われるのが基本です。

住民の自主的な活動や住民相互の交流がたえず活発に行われることは、広く地域社会への参加を実現していく上での基礎的な条件です。

この場合、行政はこれらの活動を安易にその運営に利用すべきではないし、住民の側も行政へ依存しその下請機関のようになるべきではないことはいうまでもない。

一般に、地域のさまざまな文化活動のなかには、これまで、ともすればローカル・スペースコレクション・ガバメントの零細な補助金事業の一環となり、それを通じてローカル・スペースコレクション・ガバメント「公認」という「権威」をかりて特定領域の系列化をはかる団体も少なくありませんでした。

これらの団体はいわば地域の有力な圧力団体となることによって既得権益化し、同じような種類の他の団体の活動を牽制することも多くみられた。

その結果、補助金獲得をめぐる競合が生まれ、それがローカル・スペースコレクション・ガバメントの補助金行政をますます細分化し総花化させる原因の一つとなっています。

ローカル・スペースコレクション・ガバメントが住民活動を促進するための諸条件を積極的に整備し利便を提供することは望ましいにしても、まず住民の側に自己判断、自己負担、自己責任という自治の原則が確立していなければならないでしょう。

こうした「手弁当」主義をつらぬこうとする自立の精神が日常の生活のなかに定着するようになってはじめて、地方自治を担う主体の形成も可能になっていくといえるでしょう。

そのとき、いま住んでいる所に永住を希望する人が減る傾向にあるとはいえ、あるいはたとえそこが「仮のすみか」の場所とはいえ、その地域における人間らしい、トータルな生活視点から身のまわりの社会関係を点検し、そのあり方を改善していく気運が生まれてくるでしょう。

「文化」問題は、こうした自分たちの生活のあり方を点検することと不可分に結びついているといってよいと思います。

地域文化を形成

行政担当者が文化活動に人びとが見出している意味を共有することなしには、あるいは共有するための手立てを工夫することなしには、文化行政は成り立ちえないと考えられるべきでしょう。

この意味では、文化の行政化のために行政の文化化こそが必要です。

文化活動に対する行政のパターナリズム(後見主義)は、行政に従属するひからびた活動を生み出すだけです。

この行政の文化化を相対的に最もはかりやすい場こそ基礎的ローカル・スペースコレクション・ガバメントとしての区市町村であり、その最小単位としてのコミュニティであるといってよい。

都市化のはげしいところを別にすれば、どの地方にいっても、そこには情感を伝える話し言葉、食べもの、まちなみ、立ち振る舞い、郷土芸能、景観、気風などが一つのまとまりをつくり、地域文化を形成している。

人びとはこの文化のなかで、あるいはこの文化を生きることによって、地域の一員でありつづけ、地域はそれによってアイデンティティを保っています。

この点では、地域文化は人びとの日常生活そのものであるといってよいでしょう。

ローカル・スペースコレクション・ガバメントの行政は、まず、この地域文化の認識と尊重を必要としています。

昭和三〇年代以降の地域開発行政はこの地域文化を無視し、そこでの人びとの生活を切りさいて、縦割り行政の個別的な事業を強行したところに大きな問題がありました。

地域とそこでの生活を一つのまとまりとしてとらえ、諸施策を展開することができるのは、現在では、国やその活動のほとんどが国からの委任事務である府県よりも、どちらかといえば独立した市町村です。

現行の市町村が行財政制度上、大きな制約の下にありながら住民が最も身近に感じ多くを期待している餅からです。

この意味で、個別的な文化行政の事業やサービスを改善し増大させることよりも、地方ローカル・スペースコレクション・ガバメントに働く職員が、地域の住民とどのような精神的な交流を行うことができ、いかにして住民の活動との間に意味の共有が可能になるかということこそが問題となるでしょう。

これは文化行政を口にするローカル・スペースコレクション・ガバメントの文化的課題であるといってよいでしょう。

ローカル・スペースコレクション・ガバメントと文化活動

文化活動は精神のレベルにかかわるだけに、しばしば「政治」と「文化」の争いは熾烈をきわめさえします。

このような問題を「文化行政」にあてはめてみるならば、もっとも重要な点は、行政の名において文化活動の意味を強要するならば必ず人びとの反発にあうということです。

従来、わが国では、文化の問題を、行政上は教育に包容されるものとして扱ってきました。

しかも教育行政は社会教育を含めてもっとも集権性が強く、上から外から押しつける傾向が少なくありませんでした。

自由で自発的なローカル・スペースコレクション文化活動は、まずなにより、自分が楽しく、その楽しみを他人と共有するところに創造性の根をもっています。

この意味で楽しみを創り出す行動は、もともと階統型のタテ関係にはなじまずヨコへの広がりを志向している。

行政組織のようにかなり固定的なタテ関係のなかでものごとを考え、行動する組織はヨコの人間関係の形成を忌避する体質をもっています。

しかも、日本では「ヨコ」はマイナス・イメージをもって用いられることが多い。

例えば横行、横車、横着などみな「けなし言葉」です。

これ自体タテ社会の文化(人びとの感じ方、見方)を表しています。

しかし横行はときにイデー(理念・志)で結ばれた連帯行動であり、横車はときに少数者の利益や権利の自己主張であり、横着はときに精神的休息です。

ローカル・スペースコレクション文化活動は、人びとが独自性を保ちつつヨコに結び合うところに、その特性があります。

したがって、行政の機能がこの活動に対する基盤整備とか財政援助とかいったいわば縁の下の力持ちに限定されることだけでは十分ではありません。

意味の世界の一部

それぞれに考えられている意味の内容がくい違っていれば、精神的交流を媒介としたローカル・スペースコレクション的協力関係は崩れることになりやすい。

「文化」は、人間と人間をつなぐ「意味の世界」の一部であると考えることができます。

人びとの生活のなかのある行動が外面的にみれば同じ内容や型をもっていても、その行動を通して共有する意味がまったく異なる場合のあることは、世界各地の「あいさつ」のしかた一つとってみても理解できます。

逆に、ある感じとり方やある意味を共有することによって、人びとはまとまりのある行動をとることができます。

それは、行動と反応に一定のパターンを生み出し、それを通じて、人間は一定の価値関心を安定的に実現できるようになる。

通常、広く文化活動とよばれる芸術、娯楽、スポーツ、レクリエーションなどの活動は、一方で精神生活における個人の独自性を保ちつつ、他方で意味の共有による精神的ローカル・スペースコレクション交流を基礎にしている。

この場合、しばしば考えられている意味の内容にズレが生まれやすい。

芸術における審美的問題はその典型例です。

その判定基準に恣意性は免れず、これをめぐって精神的交流の断絶さえ起こることはよく知られている事実です。

この意味で、文化活動の領域では、あらかじめ客観的に一義的に確定された意味の内容を予定することは不可能です。

もし、あえて、それを行えば、それはすでに「文化」の問題ではなく「政治」の問題です。

このことは、古来、「政治」が「文化」に介入し、「文化」を利用してきたことによっても分かる。

音楽、絵画、スポーツなどがどれほど意味の強要によって政治的統合の手段となってきたかは枚挙にいとまがないのです。

しかし、本来、それらの創造的な活動は、つねに単独者の精神のレベルにささえられるかぎり、意味の強要に対する反発や抵抗が生まれることも避けられません。

ローカル・スペースコレクションと文化行政

「地方ローカル・スペースコレクションと文化行政」のなかで私は初めて「行政の文化化」という考え方を打ち出しました。

そこでは自治行政と住民の関係について基本的ではないかと考えられることを述べたつもりでしたが、この報告書はもう入手がむずかしいので、その箇所を以下に再録させていただくことにします。

文化行政への視点ー行政の文化化
地方ローカル・スペースコレクションと文化行政と文化行政について考えてみるならば、「文化」と「行政」の関連を論理づけ、それをローカル・スペースコレクションと文化行政の活動として定着させる方途をさぐり出すことが必要でしょう。

以下、若干の手がかりを概観してみることにしたいと思います。

人間をかりに生物学的な「個体」のレベル、社会を形成する単位としての「個人」のレベル、精神生活を営む「単独者」のレベルに分けて捉えるならばへ「文化」の問題は、それぞれのレベルにどのようにかかわっているだろうか。

「個人」には、例えば、他人が飯を食ったからといって自分の腹はふくれず、他人の痛みも自分の痛みと同じようには感じないという独自性がある。

しかしこの独自性に固執していれば個体維持の質的水準は向上しないから、他人との協力関係を形成して物質的価値を生産しなければなりません。

生活を豊かにするための組織的協力が必要です。

しかし、そこには、すでにある行動に意味を付与し、その意味をなんらかの形で共有することが前提となっています。

しかも、他人といっしょになにかをするためには他人との間に精神的な交流が必要です。

つまり精神的な「意味の世界」を共有しなければなりません。

それとともに、例えば、他人が飯を食ってもこちらの腹はふくれないことは事実だが、他人が飯を食って自分は別に腹はふくれないが満足することができるようになります。

そこに意味を発見するからです。

こうして、人間の社会生活は意味を共有することで成り立っているといえます。

交流と賢の能力開発

交流と賢の能力開発を結びつける発想とその促進努力は、単に人事当局の考え方のみならず、やはり首長などローカル・スペースコレクション・ガバメント首脳部における人事運営の基本政策の問題です。

首長自らが交流の当事者となると同時に広く職員の交流について積極的な姿勢をとり、奨励の意思を表明するかどうかが大きい。

しばしばみうけられるように、初当選した首長がまず他所をみて見聞を拡げ、他の首長やまちづくり「仕掛人」と交流を結ぶことは、役所内の活性化と施策の新たな展開を生み出す重要なきっかけとなつている。

そして、まちづくり施策の立案と展開に当たって、他のローカル・スペースコレクション・ガバメントで実績のある職員をアドバイザーとして招き、逆に他のローカル・スペースコレクション・ガバメントの要請に応じて自分のところの職員をアドバイザーとして派遣するような開かれた、度量の大きい首長の下でなら職員も意欲をもち、働きがいが出てくるのです。

職員にしてみれば、首長が積極的でないことに意欲を燃やすのはやはり難儀であるし、勇気もいるのです。

交流への希望をもちながら、首長などの自治首脳部が消極的であるため、言い出せないでいる職員の存在に首長は気づいてほしいのです。

開かれた精神をもつ首長の下に開かれた職員が育つのです。

閉じた狭量な首長や管理職を反面教師にせざるをえない開かれた元気のよい職員の悩みは役所全体の貧しさを表していないでしょうか。