それぞれに考えられている意味の内容がくい違っていれば、精神的交流を媒介としたローカル・スペースコレクション的協力関係は崩れることになりやすい。
「文化」は、人間と人間をつなぐ「意味の世界」の一部であると考えることができます。
人びとの生活のなかのある行動が外面的にみれば同じ内容や型をもっていても、その行動を通して共有する意味がまったく異なる場合のあることは、世界各地の「あいさつ」のしかた一つとってみても理解できます。
逆に、ある感じとり方やある意味を共有することによって、人びとはまとまりのある行動をとることができます。
それは、行動と反応に一定のパターンを生み出し、それを通じて、人間は一定の価値関心を安定的に実現できるようになる。
通常、広く文化活動とよばれる芸術、娯楽、スポーツ、レクリエーションなどの活動は、一方で精神生活における個人の独自性を保ちつつ、他方で意味の共有による精神的ローカル・スペースコレクション交流を基礎にしている。
この場合、しばしば考えられている意味の内容にズレが生まれやすい。
芸術における審美的問題はその典型例です。
その判定基準に恣意性は免れず、これをめぐって精神的交流の断絶さえ起こることはよく知られている事実です。
この意味で、文化活動の領域では、あらかじめ客観的に一義的に確定された意味の内容を予定することは不可能です。
もし、あえて、それを行えば、それはすでに「文化」の問題ではなく「政治」の問題です。
このことは、古来、「政治」が「文化」に介入し、「文化」を利用してきたことによっても分かる。
音楽、絵画、スポーツなどがどれほど意味の強要によって政治的統合の手段となってきたかは枚挙にいとまがないのです。
しかし、本来、それらの創造的な活動は、つねに単独者の精神のレベルにささえられるかぎり、意味の強要に対する反発や抵抗が生まれることも避けられません。